2008年09月06日 06:28
2007年01月10日 17:21
揺れていた、影。その心だけが揺れている。
頬を危(あや)めた傷と取り押さえる際に刺された右肩付近から噴出した血痕を、さも傍目に見やるかのように立ち上がったまでは覚えているが、その後、去っていく警官の後ろ姿を一瞥した辺りから、まったく記憶が定かでは無い。
‘人形町に有る雑貨屋のレジでバイトをしていたあいつを始めて見知ったのは、僕が二十歳(はたち)の学生時分の頃、だった。あいつは、ありふれた、どこにでもいそうな女性だったけれど、僕が購入しようと差し出したアンティ−クな感じの女の子が傘を立て本を読んでいる置物に、こちらのセンスにくすっと同意とも取れる微笑を湛えて、「贈り物、ですよね?」と尋ねてきた。僕は恥ずかしがることもなく「いや、ただ、可愛いから、いいかなっと想って」と呟き返したけれど、アハッ、とあいつはまた好意的な笑いを覗かせ、そそくさと包装紙に包んでくれた。
そんなあいつが、僕の女の子を産んだ。僕にやがて離婚届けを突きつけた。’
ひとというものは、何故、あんなにも焦がれた恋にあっさりと終止符を打てるものなのか?
意識が覚醒し、目覚めると僕は、夢に見た、あの頃がまるで他人事のように感じられて空しかった。だが、この病室の、この横たわる僕の傍らにいる女の子はなんと説明したら、良いものだろう。
あの、もなみであった。
「・・・先生。勇気、あるじゃん」
いまだかつて見たことの無いもなみの、そのふくよかな微笑が飛び込んできたとたん、僕は止め処(ど)ない滂沱の涙を流さずにはいられなかった。
みな、揺れている。僕もまた揺れ続ける。
(あれでお終いじゃあ、なかったのか・・・)
これのちも揺れ続けねばならないのだろう。またあの大海原さえ、呼んでいる。
物語稿『揺れている、影。』了
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